高橋悠治「音の静寂 静寂の音」とわたし

毎日、本を読む。その中に定期的に読む本がある。10代の頃から折に触れ読み返している本は、もはや自分を形作るモノのひとつだといって言い。

ピアニストであり作曲家でもある高橋悠治の「音の静寂 静寂の音」はそんな本の一つだ。この本はとても静かな本だ。一人きりになれる。はるか遠くから、でも力強く、高橋悠治の声が響いてくるかのような静けさ。一頁一頁、文字数の少なさに反比例した情報の多さ。丁寧に文字を追いながら、わからないものはわからないものとして、噛み締めるようにして読み進む。現実をえぐるような根源的な問いがそこかしこにあり、ページをめくる手が度々止まる。例えば次の文章。

「東京に暮らしていて 音楽を語ることはない
こんにたくさんの音楽家がいて
音楽することに何の意味があるのか
だれも知らない。」

本は静止した時間を読み解くメディア。であるならば読書は、既に過去となった思索の痕跡の追走と言える。そして静止した時間は長く付き合うことで(または読み解くことで)奥行きと広がりを持ち、新たなメッセージを語り始めることがある。なぜなら本(著者)は正しい読み手を待っているから。そして時間と経験が本のふさわしい読み手たらしめることがあるから。この本と付き合った時間の長さがそんなことを教えてくれる。読書にはそういう楽しみがある。

この本を何度となく読む理由。音楽から見た社会という特異な視点。世界に抗おうとする反骨心。軽やかな諦念。その語り口の静けさと美しさ。そう、この本の文章はとびきり美しい。なぜだろうか。小林秀雄風に言うならば、美しい文章というものなどなく、文章の美しさがある、というほうがしっくりくるのかもしれない。「美しい文章」と「文章の美しさ」。似ているようで全く異なる2つ。本書「音の静寂、静寂の音」に通じるロジックとなぞかけ。

改めて問い直そう。「文章の美しさ」はどこからくるのだろうか。本職はピアニストであるから職業的な、技術的な単一のものから由来している美しさではない。複眼的な視点のそれだ。歴史的であり、社会的であり、政治的であり、音楽的であり、哲学的であり、文化的であり、何より批判的であり、そして詩的である。それら全てが、文章に広がり、奥行きを与えている。しかし、これは要素である。

ある年月を経て、これまで脈絡のないバラバラだったものが突然、因果関係を持ち始め、統合され、新たな発想、形に着地する。そうしたことがこの本を読む、という行為を通してわたしの中でたびたび起こっている。つまり示唆に富み、含蓄があるとも言える。シンプルに言うとわたしはこの本からインスピレーションンを得ているわけだ。そしてイマジネーションの源泉となる文章への賛美として私は「美しい」と形容しているだけなのかもしれない。

いろんな美しさがある。積み重ねの産む美しさ。真摯さの産む美しさ。ストイシズムが産む美しさ。迷いの産む美しさ。潔さの産む美しさ。過剰さが生む美しさ。諦念が産む美しさ。時を経るごとにそうしたものの美しさを感ずるようになった。そして「音の静寂 静寂の音」にあるのはそうしたものを内包した高橋悠治の思索の痕跡としての美しさ、だ。おそらく彼はモノゴトの憶測まで考え抜いただろう。ゆえに迷い、悩み、傷つき、絶望し、書かれた血だらけの文章。だからこの思索は美しく、そして静かでありながら気迫がある。

傍観者はのんきで幸せである。

「きみは靴屋にでもなったほうがいい
その通りです マエストロ」

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