自転車とわたし その3

天気の良い休みの日、家族で公園に遊びに行くことになった。その際、わたしは数十キロほど自転車で外を走ったのち、そのまま合流するという約束をして。その公園に着くと毎回その美しさに息を飲む。何度カメラを持ってきて写真に収めようと思ったことだろう。でも日々違うニュアンスを持つその美しい風景は、カメラではなくこの目に焼き付けよう、毎回来るたびに美しさを感じられる自分でいよう、そう思っていまだに撮っていない。

ほぼ毎日、この公園を出勤時に通っている。相変わらず毎回美しいと思いながら通り過ぎる。晴れの日には晴れの、曇りには曇りの、夏には夏の、冬には冬の美しさがこの公園にはある。季節はもうすでに一周しているから、この公園のいろんな表情を見た。人知れずこの公園を管理・運営してくださる方々がいてこそだろう。一年も経てば色んなディテールが目についていく。

そして今日、穏やかに揺れる木漏れ日の下で、幸せを絵に描いたような家族や恋人たちが歩いている。妻と娘に会えば、僕らも彼らのうちの一つなのだろうか。ここでは誰もが心から安らいでいて、世界中の不幸から最も遠いところにある空間のように思える。僕は彼らの合間を、そっと、ゆったりとしたスピードで走り抜けていく。

その先には妻と娘が待っている。

眩しいばかりの緑の芝生に、原色をふんだんに使ったカラフルな遊具たち。そこには多くの母親と子供たち、あるいは家族が遊んでいて、笑い声、叫び声、そして呼び声に溢れていて、とても賑やかだ。やっと妻と娘と合流し、木陰にシートを敷いて皆でしばらく語らう。その後、妻と娘が遊具の方へと遊びに向かう。僕はひとりシートに残り、ロングライドの心地よい疲労感とともに一息つく。

遠くから僕は眺める。手すりを掴み、階段を登ろうとする娘。そしてそのすぐ10cm程うしろで何かあってはならないと娘を見守る妻を。

不思議な時間が訪れる。騒がしいはずの公園の片隅で、僕は今とても静かな時間に包まれている。世界に3人しかいないみたいだ。そして僕はシートの上に座りながら、言葉にできない気持ちが湧き上がるのを感じながら、2人を眺めている。

多幸感といったらよいのだろうか。この奇跡みたいな、美しい風景が、もっと当たり前の日常になってゆくこと。これが家族というものなのだろうか。なんて素晴らしいんだ。こんな瞬間が自分にも訪れていいのか。いろんな想いが湧き上がっては消えて行った。私は横になり、上を見上げる。木漏れ日がこんなに美しいなんて。しばらく眺めてから、目を瞑る。

自転車に乗って良かったなと心から思う。なぜなら自転車はこの美しい公園に僕を連れて来てくれたから。「自転車がなければここには来なかった」 今日に限らず、そういう場所がいくつもある。また「自転車でなければ、感じられなかった季節感」というのもあって、それは車では代用できないものだ。「自転車でしか味わえない風景」もきっとあるはずだから、これからも乗り続けるだろう。思えばそんな「自転車だからこそ」がたくさんあって自転車の一つの魅力をつくっている。

言ってみたらロードバイクは僕の感受性を磨き、日々に潤いを与えてくれる。新しい自分に出会わせてくれたりもする。大袈裟に言えば僕の人生の幅を拡張してくれているのがロードバイクだ。1年間事故なく自転車にのれて本当に良かった。そんな感謝の念が湧いてくる。何より最大の理解者は妻だろう。自転車乗りにとって大変有難い。そして子供が出来たことで、妻に次のような変化も起きている。

去年、妻はバスで移動していた。
今年、妻は電動自転車で移動している。

だから今年は娘を乗せた自転車を妻が漕いでいて、私はそのそばをロードバイクで走り、家へと帰る。
娘が自転車に乗るのが待ち遠しい。

娘が笑顔でいてくれるならその思いは叶わなくてもいい。
人には好き嫌い、合う合わないはあるから。

一つだけ言えるのは、自転車が僕を嫌いになることはないだろう。
そんな気持ちで自転車生活の2年目を迎えている。

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