コーヒーとわたし その1

コーヒーとわたし

わたしはコーヒーが好きで、ほぼ毎日と言っていいほどコーヒーを飲んでいる。とは言っても飲み始めたの比較的遅いほうでは20代中盤を過ぎてから。こうやって振り返ると家族の影響というのは少なくないと思わざるを得ない。身近な人でコーヒーを好んで飲んでいる人がいなければ縁は遠くなるからだ。したがって昔の自分からは、ここまでコーヒーを好きになるとは想像もつかなかったというのが正直な気持ちだ。(人生は大概思ってもみない方向に転がって行くものだ。)

コーヒーとの本格的な意味での出会いは2015年に遡る。ある日、友人との食事の待ち合わせ場所に、予定よりも早く着きすぎてしまったことがきっかけだった。珍しく手持ち無沙汰な気分になって、周囲をブラブラしていると近くのカフェがあり、そこで妻と飲んだ一杯のコーヒー。 それが生まれて初めて美味しいと思ったコーヒーだった。店の名前はFuglen。以来、事あるごとにこのカフェを利用し、折に触れては豆を購入している。

以後、私の生活の一部が大きく変化した。必要な機器を買い揃え、毎朝ハンドドリップでコーヒーを淹れるようになった。湯を沸かし、豆を曳き、ドリッパーにペーパーを敷き、粉をセット、そしてお湯を注ぐ。できたら270ml入りの水筒に入れ、職場に持っていく。残りは朝の1杯となる。今や毎日繰り返され、身に染み付いた朝の神聖な儀式のようなものだ。

休みの日は美味しい豆を探して出歩くようになった。ロースタリーを訪れ、一杯飲み、美味しかったらそこの豆で買って帰る。自宅の冷凍庫には、3種類ほどの豆を保管しており、それらその日の気分に応じて同時進行で消費していく。(これは最近見つけた楽しみ方だ。)だから豆を買うとき、一回当たりの購入量を少なくし、色んな豆を味わえるようにしている。いつかお気に入りの豆に出会えるように。

早いものでコーヒーと出会ってから、かれこれ年数が経ってしまった。しかし飽きることなく飲んでいる。むしろその奥深さゆえだろうか、飲むほどに先が見えない感覚がある。しかも相変わらず、美味い。寒い日の朝に飲む淹れたてのコーヒーは格別で、昼下がりに飲むコーヒーは心に落ち着きを与え、夕暮れに飲むコーヒーは、どこか染みるようで、いずれもわたしの生活に欠くことのできないものとなっている。

ある休みの日の朝、私は一足早く目を覚まし、顔を洗う。キッチンに立ち、いつもの手順でコーヒーを淹れる準備をする。頃合いを見計らったかのように妻が眼を覚ます。少ししてから娘の泣き声がして、彼女が目を覚ましたことを知る。私は小さな娘を抱き抱えるとキッチンに戻る。娘の視線はコーヒーに集中する。そしてわたしはゆっくりと、丁寧にドリッパーに湯を注いでいく。左腕と半身に娘の体重そして体温を感じる。小さなリビングにコーヒーの香りが充満していく。

「大きくなったら父さんと一緒にコーヒーを飲もう。」

毎回、同じことを言いながらコーヒーを淹れている。この願いはいつか叶うだろうか。

気まぐれに妻が「私もコーヒーを飲みたい」と言うことがある。でも僕はいつも、密かに2人分を用意していて、彼女がそう言うのを待っている。彼女はそれをきっと知らない。

こんな朝のルーティンが3人で暮らすささやかだけれども確かな家族の時間として私の中に堆積していく。そうして私の一日が始まっていく。この何でもない一日の始まりが、私にとってなによりの幸せな時間の1つであることが「わたしはコーヒーが好き」と言える理由かもしれない。そう、私にとってコーヒーは単なる飲みものを超えた存在となった。それは優しい時間であり、暖かな空間であり、わたしたち家族をか細くもつなぐ何かだ。

そして今日も、寝癖の残る娘を左手に抱きながら、私はコーヒーを淹れ、妻が同じ空間にいる。コーヒーと本格的に出会った2015年、娘はまだいなかった。2人で暮らしたこのアパートに、今は3人で暮らしている。

コーヒーは変わらずそこにある。

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