カメラとわたし

普段見慣れた場所を、カメラを持って歩いてみると美しいものに溢れていたことに気づかされる。今日そんな体験をした。

近所のスーパーに牛乳を買いに行った。11月、ある休日の午前。少し肌寒いが太陽が出ており、陽射しが当たると心地よい暖かさを服越しに感じる。買い出しなら本来邪魔なのだけれど、何の気なしにカメラを持ち出してみた。私は定期的にこの「いつもなら、しないこと」に取り組んでいる。そしてそれはいつも結構いい結果をもたらしてくれる。

なぜそんなことをしているかというとそれが楽しいから、だ。なぜ楽しいのかそれは、はじめてのことは新鮮で、刺激的で、発見があるから。だから「いつもなら、しないこと」の対象と射程を少しずつ、様々なことに広げている。そして今日、久しぶりにカメラを持ち出してみた訳だ。

近所の住宅。舗装された道路。ひびの入った路面。道端の雑草、土、そして石。誰かが手入れをしている花。木々の黄色い葉。青い空。白い雲。日差しと影。工事中のパネル。自転車をこぐ女の人。信号で止まる車。標識。交差点。ビル。お店。そうしたものを通り過ぎて歩く。時々立ち止まり写真を撮る。まるで初めて見るような目でそれらを見ている自分に気づく。

家に帰った後、撮った写真を見て、初めて見るような景色が映っていてもう一度驚く。確かに私がいつも歩いている風景の一部分ではあるものの、何かが違っている。写真だから現実と異なるのは当然なのだけど何処かよそいきの雰囲気を携えている。何かが違う。言葉になるようで、言葉にならない何か。なんなのだろう。違うのは私の風景の見方だった。

生活圏内のただの風景として見るか、固有の被写体として見るのかで、こんなに差がでるのか、と驚く。つまり、カメラを持つことは「観ようとする意志」に他ならず、極めて能動的な行為なのだな、という感じた。極端な話、カメラは生きていくために必要ない。だから撮る理由が必要。とまで言わなくても、カメラのない暮らしがさみしい人はいくらでもいる。私もいつかそうなるのだろうか。

写真を撮っているとき、家でそれを見返すとき、喜んだり、がっかりしたりする自分がいる。きっと「何かを生み出している感覚」をどこかで感じているからだと思う。普段見慣れた場所を、カメラを持って歩いてみると、美しいもので溢れていて、私はそれのほんの僅かばかりを写真に収め、持ち帰えることに成功したという密やかな充足感。「普通の中」から私が発見したとっておきの宝物。おそらくそれが私にとっての写真なのだと思う。

もう少し話そう。生活圏半径100m内でとっておきの美しさに出会うことができるツールがカメラだ、といったら笑うだろうか。でもそれが私がカメラを持って外にでる理由の一つだ。見逃しがちな「普通」の中から、「普通じゃない」何かを取り出せたら、きっと私はゾクゾクする。その瞬間を少し感じるたびに、私はまた少し写真が好きになっていく。

この説明にならない説明をわかりやすく伝えてくれる言葉を敬愛する写真家Saul Leiter (ソール・ライター)に発見したのでここに記す。

1.I take photographs in my neighborhood.I think that mysterious things happen in familiar places.We don’t always need to run to the other end of the world.
訳文:私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。何も、世界の裏側まで行く必要はないんだ。

そしてこうも言う。

2.It is not where it is or what it is that matters but how you see it.
.訳文:重要なのはどこで見たとか、何を見たとかということでなく、どのように見たかということだ。

20171126-L1001183
写真に撮るとちょっとよそ行きな雰囲気になってしまう。
20171126-L1001186
雑草?に寄る。右上にノイズのようなものが入る。
20171126-L1001132
音符のようだと思った。思わず撮った。下手な画とも思うがこれくらいのユルさがいいか。

秋ではなく、冬とも言い難い。ひどく境界線が曖昧な一日の一瞬。そんな曖昧な空気感は入っているような気がする。それでいい。よくわからないから補正はなし。撮ったまま。あとは知らない。今の私は、目の前のものをどう見るか、が全て。現象は今、ここを感じる対象。そして写真は結果である。にしても凡庸ではあるが、美しい一日だった。

Posted In